子タヌキ登場
先程、夜の9時過ぎに今日2度目の潅水をしていたら、暗闇の中、隣の敷地でガサゴソと音がしていて、何者かと思っていたら、私の棚のある2階への階段の下に子タヌキが2匹現れました。
杉並区は何故かタヌキが多いそうです。
その子タヌキはしばらく階段下でウロウロしていましたが、そのうち、1匹が階段を私のいる棚まで昇ってきました。
私の手前1メートル程の所まで来て私と目が合い、子タヌキは立ち止りました。
その可愛らしさに顔がゆるんでしまいましたが、この棚をタヌキの通り道にされようものなら、自慢の五葉松の鉢に特製の大型肥料をプレゼントされたり、自慢の東福寺コレクションを無慈悲のダイブで割られたりしかねませんので、ここは・・・と、私の無限の想像力を100%稼働させて、思い付く限りの、そして、私の顔面の筋肉が限界を越えて破壊されるギリギリのところの、思い切り怖い鬼の形相で、その子タヌキをにらみ付けてやりました。
その子タヌキは、この人間には関わらないほうが利口だと思ったらしく、動きを止めた体を方向転換させて、階段を下りて行きましたよ。
階段の下ではもう1匹の子タヌキが待っていたのですが、降りて行ったほうと一緒に逃げるのかどうするのか、私は階段の上で様子を見ていたのですが、待っていたほうの子タヌキも、入れ替わりで階段を上ってきました。
しかしその動きが、どうも義務感を感じさせるようなしぶしぶ感があり、仕方ないなぁという吹き出しが付いていそうな感じで、若干私も不機嫌になりました。
でも、また私の手前1メートル程のところまで来ると、その子タヌキの顔もはっきり見え、それがまた可愛らしくて、再び顔がゆるんでしまいましたが、
「いけない、いけない」
と我に返り、また、鬼の形相でにらみ付けてやりました。
(さすがに2度目は私の顔の筋肉も破壊される寸前でしたよ)
すると2匹目の子タヌキも、ひぃとばかりに驚いて退散(する振りを)してくれました。
奴等はもうここに現れることはないでしょう。
だって、奴等は完全にビビってましたから。
柿の実生 軸切り挿し芽と胴吹き
柿の紅葉をたのしんでみたいものだと、今年も柿のタネをいくつかまいてみました。
ただ実生しただけでしたので、足元がちょっとイマイチでした。
足元から最初の芽ツボまでは距離もありますし、かといって、ひたすら胴吹きを待てる自信もなし。
そこで、やったこともなければやったなんていう話も聞いたことありませんでしたが、軸切り挿し芽を試してみたのです。
そうしたら、すべて成功してしまいました。
これらはハサミでじっくりいきますよ。
どうせ私のたのしむ大きさで実成りは難しいでしょうし、急ぐ旅ではありません。
そして芽ツボを切り取られた柿本体なのですが、そのまま水をやっていたら、予想外の事態に。
胴吹きして、こちらはこちらで生き残りました。
1本、胴吹きした後、その芽が枯れてしまったものもありましたが、またしばらくすると別の芽を吹いてきました。
柿の生命力、恐るべし。
軸切りしなかったものの中には、幹を引っ張りで強く倒しておいたものもありましたが、こちらも予想外の事態。
曲の背中が割れて、胴吹きしてきました。
ちょっとエイリアンちっく。
ロウヤ柿でもそうですが、柿って、ヒコバエをよく出すくらいですし、どうも、幹を伏せるとその幹の発展を早々に諦めたかのように、伏せられた辺りから上へ伸びる胴吹きが起こる性格なのでしょうか。
だったらわざわざ今回挿し芽なんてしなくてもどうにかなったのかもしれませんね。
要は、足元にハサミで曲を入れるために芽ツボが欲しかっただけですから。
足元の一曲のために1年、2年、浪費しようとしただけですから・・・
こんなことやっているから、時代のテンポについていけないのです。
そんな私ですが、ついさっき、40歳になりました。
一体、こんな40歳で良いのでしょうか。
柿の実生をああだこうだ言っている40歳の自分・・・子供時代の自分が見たらどう思うでしょう。
ごめんね、まこと少年よ。
許しておくれ。
ところがどっこい、うちの実家の前には私がごく幼いころから、実生して数年と思われる小さく若い柿の木が地面に植わってまして、この木は間違いなく、私の父か母がタネをまいたもの。
幼い頃はこの柿の葉をもぎって遊ぶことも多く、少年時代の私が今の私を見ても何とも思わないでしょう。
それが普通だとすら、思っていることでしょう。
大人とは、タネをまく生き物なのだと。
そういう星の元に生まれたのだよ・・・まこと君。
守りの夏
今日歯医者さんへ行き、やっとすべての治療が終わりましたが、麻酔が効いていて唇に感覚がなく、まだ、まともにコップでテキーラすら飲めません。
仕方ないので、その手の趣味で遊ぶ用にしまってある哺乳瓶を使っています。
それで、私が昔実生したキンカンが、久し振りに花を咲かせました。
去年だいぶ弱らせたので今年は放置していたのですが、きっとそのせいですね。
柑橘といえば、数年前にベランダの自由を失ったbonさんの樹を預かった際に剪定と称してその枝を盗んで挿したキンズに初めて花が来ました。
コーヒーフレッシュ鉢から今年は小さな素焼鉢に移しましたが、そのせいか樹に力がついたようです。
そろそろハサミを入れられそうです。
こちらはおそらく実生かと。
何もしていないのに良い曲ができています。
子供の頃にミカンの樹で遊んでいた私としましては、柑橘類は好きなのですが、自分の好みのキンズが売られていることが今までなく、仕方ないので自分でチマチマやっていきながら気長に探すことにしています。
ところで、私の感覚がおかしくなってしまったのでしょうか、今年の夏はキツイことはキツイのですが、比較的厳し過ぎない夏に感じます。
ここしばらくは雲も多く、それで日除けをしていると、湿度が高い分、鉢の乾きにも余裕があります。
かと言って、下手に無理をするとあとで後悔しますから、出掛ける際は、変わることなく用心深くです。
夏は守り。
守りの夏です。
(「愛は君」という方は井上陽水をどうぞ)
杜松宝をもうひとつ。
杜松宝を薄い長方へ。
挿し木で良く発根して増やせます。
私の松柏芽摘み入門だった樹種。
まだしっかりと根を張ってくれていませんが、2、3年もすれば、とりあえずはそれなりの姿になってくれると思います。
写真からも、上の芽が強く出ているのがわかります。
下枝が弱らないように、力の行きやすい上部を、下の方より厳しめに摘んでいます。
支部展の飾りに悩む私の心は辰砂色。
さて、明日はいよいよ納涼展です。
いつもの例会の会場で夏の飾りをしたり、新人は9月の支部展のリハーサルとして飾ってアドバイスをいただいたり。
そんなことをしながら、いい大人が子供のように、きゃっきゃ、きゃっきゃする、そんな日です。
今年も支部展に何をどう飾れば良いのか、ただひたすら悩む日々です。
私もそろそろ、もう少し楽に展示できないものかと、少なくとも主木の松柏を選べるくらいの余裕ができないものかと思いますが、毎年この時期になると自分の棚が貧相で仕方なく思えてきてしまいます。
今年も飾れる松柏はなさそうです。
ただでさえ少ない良い状態の草木ですら、夏に入り、水を切らせたり、コガネムシに葉を喰い散らかされたり・・・これは修行か?と思うくらいに追い込まれます。てへ笑。
それでも、
終わらない夜はない。
叶わない夢はない。
飾れない支部展はない。
そんな言葉を唱えながら生きています。
思うに、飾りを決める際、あの樹なら使えるかも、あの草なら使えるかも、あの卓を使えるかも、なんて気持ちが散漫にあるとダメですね。
組み合わせて調和させるのに苦労して、気が付くと迷路に入っています。
主役をしっかり決めて、景色をイメージしてみて、やはりそこから考えると道がひらけてくることが多いです。
まずは核となるものを決めることの大切さを痛感します。
そうすると、今年使えたら使いたかったと思っていた草樹でも、この飾りには合わないなと気付けたり。
自分の中ではたいしたものでなくとも、脇役として場の雰囲気を作ってくれる、そんな見えない力を持ったヤツもいたり、脇役だろうと思って育ててきたものが主役や準主役に抜擢されちゃったり。
私の場合、自分の飾りのテーマに縛られて、全体が美しく見えるかどうかが見えなくなっていることも多いので、とにかく頭を柔らかくする必要を感じます。
さあさあ、どうなることやら。
先日、2度目の辰砂を焼いてみました。
なかなか良い感じに焼けました。
杜松宝 5本寄せ
杜松宝の寄せ植え。
ネットで隠れてしまっていますが、鉢は自作の七輪焼きです。
困るのが、樹を1本1本鉢に固定できないということ。
そのせいか、こういう鉢に寄せると時々枯れてしまう株が。
この鉢の樹はもう大丈夫でしょう。
根をしっかり伸ばして、ある程度は自分の力で鉢にへばりついてもらおうと、その時をまっているのですが・・・今年はまだダメ。
今はまだ、鉢ごと針金でぐるぐる巻き状態で、その上に水ゴケを敷き、ネットで包んでいます。
水ゴケをひいておいたら地際で発根しているようですので、しばらくは変にいじくらず、来年に期待します。
気ままさんの真柏
以前気ままさんからいただいた真柏。
ブログに初登場?
枯らしたわけではありませんよ笑。
うちで一番大きな樹の中のひとつです。
この樹の未来を想像しつつ、いらない枝を取ったり挿したりして、だんだん枝がなくなってきました。
あと2、3本取れます。
そうしたらいよいよこの樹を作ることに集中となります。
左上に伸びる枝を残して使おうと思っています。
チマチマした小さな樹ばかりをやっている私がどの程度やれるのか、力試しです。
うちで一番日当たりの良い場所をあげているので、一日中陽に当たりっぱなしです。
カエデ(元マキバオー)
去年か一昨年くらいに盆栽大野さんのところでいただいて来たカエデ。
もともとはもっとノッポの樹でしたが、一の枝で作り直しました。
こういう、地味だけれど味のある樹は、なかなか売ってはいません。
溢れんばかりの才能を惜しみなく注いで自分で育てるのが近道な気もしますし、それが一番たのしいです。
今お気に入りの一鉢ですが、こんな樹ばかりを育てていると、また、それはそれで困ったことになります・・・
横浜真柏
盆栽をやらない人と盆栽について話す機会があると、それでも
「針金で樹の形を作るんでしょ?」
という話はよく出て来ます。
盆栽=針金。
しっかりこのイメージは浸透しているようです。
私はといえば、東京支部の教室で教わっていて一番感じたのが、芽摘みと剪定で樹の力を加減することの大切さだというのがあり、樹形を枝をどうにかしたいと考えた時、何も考えず針金を当てるのではなく、芽摘み・剪定で、強さや伸びる方向をガイドしたり、植え付け方を考えてみたり、指でしならせてみたり、つっかえ棒を当ててみたり、樹種の癖によっていろいろ考えて、針金はなるべく最後の手段にしています。
小さい盆栽で、なんだかんだで結局最後に役に立つのが芽摘み・剪定の勘だと思っています。
でも、使わないわけではないです。
挿し木の素材だって、初めから足元に良い曲が付いているものばかりではありませんし、針金で整姿するのがベストに思える箇所があったりもしますし。
そんな私の、いわゆる私らしくなさそうな樹になるのでしょうか。
2010年の11月に横浜の展示会に行った際、町なかに鉢と一緒に生えていた真柏を持ち帰りました。
その時の写真↓
杜松のトウシオと一緒にうちに来た樹ですね。
方やトウシオのほうは今年の1月に名品展デビューしたのに、こちらは人から見られることもなく、ブログにさえ登場もせず、ひたすら家で日光浴です。
人柄も樹もやさしいと評判の私ですが、ちょっと、この樹は荒くれた樹にしたいというイメージが最初からありまして、ほら、優しい人ほど怒ると怖いというでしょ、そんな一面をこの樹で魂をかけて表現するのが私の使命だと、ある日そんな声が空から確かに聞こえまして。
それで今の姿↓
随分と変わってしまいました。
そして、私にしてはかなり太く、大きめです。
「どうせ大きい樹は作れないんでしょ?」
と言われて、自分の小心ゆえ、返す言葉が見付からなかった時に自分を慰めてくれる、そんな樹になって欲しいです。
幹上部の強い曲の所で取り木して、懸崖ではなく、強い風で地を這うように生きるしかなかった16世紀フランスの真柏をイメージしました。
鉢のネットを取ると三本の幹になっているように見えるのですが、幹は1本で、残りは枝です。
裏側↓
てっぺんに1本立ち上がっている枝が芯になります。
次は芯をどうにかする感じなのですが、芯と枝が決まったら全体をキュッとまとめようと思っています。
それまでは、各枝に光が入っていくように緩めで。
やっぱり針金だらけになっている樹はちょっとヒキます。
自分の思い通りになれ!という気持ちがベタベタとくっついて見えて、閉口してしまいます。
でも、やっぱりこういう真柏には針金が必要ですね。
とにかくそれだけはわかりました。
今は大ざっぱでかまいませんが、形が決まってきたらもっと丁寧に針金を掛け直そうと思っています。
というわけで、まこっちの「実はこんな樹も作っています!!」のコーナーでした。