青つづらふじにまつわる私の哲学的思索
先月、ビニールポットに入ったままの青つづらふじに花が咲き、でもでも、この樹はまだ根すら出来ていないわけで、実成りはお預けねっという私の強い意思を高らかに宣言したわけですが、
ちょっと待て、私はまだこの樹の実のジツブツを手にとって見たことがない。
この経験を少ししておけば、次からの受粉作業にも経験値があることになり、また、早いうちからこの樹のために用意する鉢のイメージもつきやすい、うん。
そうです、しっかり準備済みのオス木の花粉でちょっと受粉させてみました。
なあになに、作っている最中の樹に実を付けないなどと、どれだけ論理的に行動しようが、人間がやることには必ず不条理が存在するのです。
ま、ほら、人間ってのは不条理を生きているわけだからネ。
作りかけの樹にちょこっと実を成らすことくらい、可愛いものです。
???
完全に破綻すらしている屁理屈です。
ところで、昨日書いた日本小品盆栽協会の会報91年、第38号のT屋さんの記事の一部を、勝手に載せてみましょう。
「田舎育ちの私は山野でごく普通に見ました。白粉をかぶった青黒い果実はとても美しいものです。葉が落ちた後の風情は、画家ならキャンバスに、歌人ならば歌わずにはおれない風情です。ある料亭で床の間の竹の一輪挿しに、枯れたつづら折れの枝にしぼんだ果実を見たとき、これだと思いました。盆栽には出来なくとも小品盆栽なら飾れると。
あれから十数年たちましたが先ずタネ樹がありません。タネ木探しに数年、見つけたときはそれは嬉しかったものです。雌雄異株で花は咲けども実は止まらず、別々の所から集めた四株を並べて置いてもだめ、たまに二粒くらいはなるのですが飾るところまでいきません。
そこで実生しかないと今度は沢山種を蒔きました。これが大成功で実生の80パーセント以上が雄樹です。実生2年目から蔓先に花が咲くものがあるのです・・・・・」
今では普通に手に入れることができる樹も、新樹種だった昔は、樹ひとつ作るにしても相当大変だったことが想像できます。
そして、その喜びも・・・。
↑T屋さんの去年の展示より、青つづらふじ。
盆栽にしても鉢作りにしても、今では簡単に情報を手に入れられますが、豊かさの意味を見失った現代社会と同じく、この盆栽におけるある種の豊かさに浸かってしまった我々の、言ってみれば「現代盆栽の飽和的不幸」を前に、私の思索は空回りし、やはり、一度料亭に行くしか道はないように思えてならぬのでした。
盆栽の本来あるべき姿を求めて、いざ、料亭へ。
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はい、ちょっと遊んでみました笑。
それは別にいいとして(←やはり軽い)、もう実を付けてしまったのですから、これからの変化を間近で観察していきたいですね。
本やネットの情報だけではやはり、もの足りません。
それはそうと・・・
赤松の剪定枝を挿してひと月ほど経ったでしょうか。
私の発想は、無邪気な幼稚園児並・・・・笑?
左が株立ちになりうる車枝、右が双幹になりうる二又の枝。
以前気ままさんが赤松を挿して発根させたと聞いた時には、本当、尊敬しました。
発根させたことよりも、その心意気にです。